真っ暗な空(くう)から、真っ白な細い手が伸びてきて。

顔をつるんと撫でる。

最初は驚いた、怖かった。

こんな夜に、泣きつく人が居ない事がこんなにも寂しい事だって。

初めて自分の身の上を呪った。














小袖の手










「でさー・・・」

「マジで??それあり得なくね?」

ごく普通の高校の、ごく普通の昼食風景。
教室の一角では仲良しの三人が机を囲み、他愛ないお喋りに興じる。
二人は母親手製のこじんまりとした弁当をつついている。
もう一人は購買で買ったパンを、睡眠不足な顔をしながら食べるでもなく、只、手に持って眺めていた。
「どうしたのさ?梓、食べないの?」
一人が声を掛ける。
「しかも今日それだけ?いつもは三個くらい普通に食べるのに。」
もう一人も心配そうに覗き込む。
「ん〜寝付けなくてさ。食欲もないの〜。」
梓と呼ばれた少女は机に顔を突っ伏し、コロッケパンをころころと転がした。
「何?何?不治の病?」
「梓もとうとう好きな人でもできたのか〜?」
口々に言う友人を横目で見つつ、はぁっと大きなため息を漏らす。
「あんた達は幸せそうで良いよね〜。その軽さ分けて欲しいよ。」
「失礼な奴だなぁ。これでも色々あんのよ。」
「そか。」
素っ気無い反応に、二人は顔を見合す。
「ほんと、どうしたのさ?」
「話すだけ話してみ?」
「ん〜・・・・。」
少し考え、梓はパンを転がす手を止めた。
「だって、絶対笑うもん。」
口を尖らせ、しかめっ面をする。
「マジな話なら笑わないって。ねぇ?静香?」
「うん。あんたがそれだけ元気ないって、あんまないからね。」
梓はまた一つ大きなため息を吐き、のろのろと顔を上げた。
そして、沈痛な面持ちでやっと搾り出した一言。
「うちさ・・・出るんだ。」
二人の動きが止まる。
「出るって?」
「ごきぶり?」
「もー!!真面目に聞いてくれないなら話さないっ!!」
静香が茶化した百合の頭を小突く。
「あんたが悪い。」
「ごめんごめん。出るって、これ?」
両手を前に、幽霊の真似をする。
無言で梓が頷いた。
「マッジで?あんたんとこ普通のアパートだよね?」
「出るなんて噂、聞いた事ないけど。」
肩を落とし、机をじっと見つめる。
「うん・・・。大分前からなんだけど、気のせいかな〜くらいにしか思ってなかったんだよね。」
梓の話はこうだった。




夜、寝入り端にふいに何かの気配を感じてうっすらと目を開ける。
すると、真っ暗な空(くう)に真っ白い手が伸びてきて、顔をつるんと撫でる。
思わず手で顔を覆い、暫くしてから隙間からそっと覗くと。白い手は消えて、いつもの自分の部屋の空気に戻っているのだという。
だから、夢かと思った。
けれどそんな事が、週に一、二度あるらしい。
こうも続くと、夢だとは思えない。
手は顔を撫でるだけで、それ以上は何もしないが、さすがに気味が悪くなってきた。
それで梓は睡眠不足なのだという。




「うっわ。それ怖いな。」
「梓、一人じゃんねぇ。暫く家泊まったら?」
「・・・・良いかな?」
「勿論!!家の親梓の事好きだし。気の済むまで泊まってったら良いよ。」



そうして話はまとまり、梓は百合の家に泊まる事となった。



「あ、現国の教科書忘れたー!」
鞄をあさりながら梓が声を上げる。
「良いじゃん。まなに借りれば。」
「そうだねー。」
そんな事を言いながら、二人は布団に入り、電気を消した。



その夜、寝苦しくてふと目を覚ました梓の前にあの真っ白い手が伸びてきて、つるんと顔を撫でた。






「えー?昨日も出たの!?」
朝、登校してきた二人にその話を聞いた静香が目を丸くする。
「それはもう、家に憑いてるって言うか・・・。」
その先を言う事を躊躇った。
「うん。私に憑いてるっぽい。」
昨日より更に落ち込んでいる梓を二人は心配そうに見つめた。
何か考えていた静香が口を開く。
「1組にさ、その手の話詳しい子がいるんだよね。将来、心理学だか、民俗学だかに進むって言う変わり者。」
「あ〜聞いた事ある。ちょっと有名人だよね。なんてったっけ。宮下万里枝?」
「そうそう、それ。万里枝さん。」
放課後行ってみようか。
誰ともなしにそういう事になった。




変わり者という噂だから、どんな子なのかと思っていたら。
万里枝は意外にも普通で、むしろ美人の部類に入る。
理知的な光を目に宿し、白い顔にかかる黒髪が印象的だった。
「暗闇から手?」
三人の不躾な訪問にも嫌な顔一つせず、こういう事はよくあるから。と言って笑顔で対応してくれた。
紅い唇に白い手を当てて、少し考え込む。
「それは、どういう時に出るか。とか、パターン的なものがあると分かりやすいんだけど・・・。」
さすがにそういった事を勉強しているだけあって、それは幽霊の仕業だ。と、易々と口にはしない。
「パターンか・・・。」
「精神的なものなら、考え事が心に付加を与えてそういった幻を見る事もある。あなたはその時、何かに深く悩んでいた?」
梓は考え込むも、深い悩み事など心当たりがなかった。
明日のお昼は何を食べようだとか、課題の締め切りが迫ってるとか、そんな程度しか思い浮かばない。
「そう・・・。じゃあ手が現れ始めて、何か変化はあった?」
「ん〜・・・。」
ふと、思い当たる事があった。
「それのせいで目が覚めて、目覚ましセットし忘れた〜とか、お風呂追い炊き付けっぱなしだった。とか気付いたくらいかなぁ。」
万里枝の目がくるん、と見開かれた。
「それ、大丈夫。」
にっこりと微笑み、梓の手を取った。
「また、手が現れたら、今度はじっと見てみて。何の為に出てきているのか分かるはずだから。」
怖がる必要は全くないから、安心して。と言って、万里枝は教室を出て行った。


「ふぁ〜なんか、説得力あるなぁ。」
「なんか信じちゃうよね。綺麗だから。」
そんなもんなのか、と友人達を横目で見ながら梓は自分の手を見つめた。

『何の為に出てきているのか分かるはずだから』

万里枝の言葉を頭の中で反芻する。

「ま、万里枝さんが言い切ったんなら、信じてみようよ。」
「うんうん。心配なら私らも梓ん家泊まりに行くからさ。」
気遣ってくれる友人にお礼を伸べ、大丈夫。と笑って見せた。




「怖がる必要は全くない、か。」
真っ暗な部屋の電気をつけ、食卓の上を見る。
ラップがかけられた簡単な食事に、『行って来ます』のメモ。
最後に母親と言葉を交わしたのはいつだったか。思い出せない。
毎日自分が帰ってくる前に仕事に出かけ、起き出す頃には熟睡している。
朝の母親の部屋は酒臭くて、開ける気にはならなかった。
「親がいなくても、子は育つってね。」
独り言を言いながら、レンジで温めた食事をもそもそと食べ始めた。
一人で食事をして、一人でテレビを見て、一人で眠る。
それは梓にとって当たり前だった。
不便に感じた事もなかったし、煩く言われないだけマシだなんて思っていた。
その夜。
ベッドに寝転がり、友人にメールを打っている最中。梓は寝入ってしまった。
暖房が効いているとはいえ何も掛けずに眠った梓は、薄着で街を歩く夢を見た。
(寒いなぁ)
薄ぼんやりとした意識の中で、そう思う。
ふいに眠りが浅くなった時。
あの手が現れた。
電気が煌々と点けられているにも関わらず。


『また手が現れたら、今度はじっと見てみて。』


万里枝の言葉を思い出した。
今までは怖くて目を閉じてしまっていたが、今度はしっかりと目を開けて手を見つめる。
その手は見覚えがあった。
親指の付け根に一つのほくろ。


「・・・・お母さん?・・・」


梓が見ている中、手はすぅっと空間に消えていった。






「小袖の手。」
翌日、再び万里枝を訪ねた梓は答えを知った。
「子を想う親心が現れた妖怪なの。昔、母親を亡くした娘が婚礼の時に自分で着物を着付けていたら、小袖から白い手が出てきて着付けを手伝ってくれたそうよ。」
梓は無言のまま肩を落とす。
「そんな・・・知らなかった・・・。お母さん、私の事なんてどうでも良いと思ってると・・・。」
床を見つめ、呆然とする梓の肩に優しく万里枝が触れる。
「親の心子知らずって、言うじゃない。」
夕べの自分の言葉を恥かしく思った。
「万里枝さん、ありがとう。」
万里枝はにっこりと微笑んだ。






心配して見に来てくれた百合と静香にもその事を伝え。
笑顔を取り戻した梓。
少し見回せば、こんなにも自分の側には思いやりが溢れている。
言葉だけではなく、心からの『ありがとう』を友人に言った。


そして、もう一人。
どうしても伝えなくてはいけない人がいる。


どうしたら伝わるだろう。
梓は考えた。






早朝4時過ぎに帰宅した母親はいつも綺麗に片付けられている食卓に何か置かれている事に気がついた。
ちょっと不恰好なサンドウィッチ。
皿の下には『いつもご苦労様。いつもありがとう』のメモが置かれてあった。










それからも梓の前には度々あの手が現れたが、もう二度と怖いと思う事はなかった。



















END


















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人間の精神は不可解で強力です
そして、何よりも強いのが『子を想う親の心』だと私は思っています
時に重く感じるかも知れません
けれど、そこには『無償の愛』が存在するのです
それが、『小袖の手』という妖怪を生み出したのです